スカ

「スカ」と聞いてまず浮かぶのが「東京スカパラダイスオーケストラ」ですが知ってますよね。「スカ」の特徴は「ウン・チャ・ウン・チャ」と言うリズムです。つまり2拍目と4拍目が強くなるわけですね。「スカ」と言うとジャマイカの音楽というイメージがあるかと思いますが、実はジャマイカが発祥地ではないのです。もちろんジャマイカでブレイクしましたが。そして、何とジャズの影響を受けているって信じられますか?詳細は末尾にウィキペディアから転載しますが、早速「スカ」の名曲を聴いてみましょう。私なりのベスト11です。

Bob Marley - One Love ←私の超お薦め
Reel Big Fish - Take On Me ←私のお薦め
Save Ferris - The World Is New ←私のお薦め


では、「スカ」の詳細についてウィキペディアから転載します。

スカ

Jump to navigation Jump to search

スカ (Ska) は、1950年代にジャマイカで発祥したポピュラー音楽ジャンル。2、4目を強調したリズムが特徴。

目次

発祥~オリジナル・スカ

スカの発祥については諸説ある。感度の悪いラジオで、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ放送局からのジャズの2・4拍めが強調されて聴こえたため、誤ってコピーされたという説もある。直接的には、1950年代からのアメリカのリズム・アンド・ブルースと、ジャマイカの音楽文化には欠かせないサウンド・システムの影響が大きいが、それ以前にジャマイカにはジャズの下地があり、スカ以前のメントラスタファリアニズムの影響があった。

ジャズの影響

イギリスの統治下の時代にジャマイカにもたらされたブラスバンドの形式は、キングストンでいくつかのジャズの楽団となって残っていたにせよ、1950年代までは、労働者階級にはメントが一般的で、ジャズは中産階級に好まれていた。西キングストンにある感化院、アルファ・ボーイズ・カトリック・スクールの教師が、厳しく品行を正す教育と共に、特にジャズの音楽教育のプログラムが取り入れたのはこうした理由による。トミー・マクックドン・ドラモンドリコ・ロドリゲスらはこの学校でジャズを学び卒業し、デューク・エリントンカウント・ベイシーの影響を受けたジャマイカのビッグバンドで演奏を始めていた。

ラスタファリアニズム、メントの影響

1950年代には、ジャズの手解きを受けたアルファボーイズ出身者らが、ラスタファリアンのカウント・オジーを訪ね、ワレイカ・ヒルでナイヤビンギに合わせて管楽器を演奏するセッションが度々行われていたという[1]。スカに特徴的な2・4拍目が強い裏打ちはこのナイヤビンギの影響もあり、アメリカ音楽に対するラスタ的な返答とも受け取れる。一方は、メントやカリプソなどカリプ圏の音楽は小節が3-3-2拍のリズムで、このリズムに対するバックビートとして2・4拍目を強調した結果であるとも言われている。

R&Bの影響

第二次世界大戦後から、ジャマイカではラジオの購入者数が増加し、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ局から、ファッツ・ドミノルイ・ジョーダンなどのR&Bを聴くことができた。その上、戦後のアメリカ軍の駐留は、ジャマイカ人が軍事放送でアメリカ音楽を聞くことができたことを意味し、さらに米国からのレコードの一定の流入があった。そのような音楽の需要に応えるために、コクソン・ドッドデューク・リードらはサウンド・システムを形成した。サウンド・システムはスピーカーシステムのパワーと、レコードの品質の両方によって良し悪しが判断されたため、サウンドマン達はマイアミやニューオーリンズからレコードを独自に入手した。R&Bやジャンプ・ブルースが1960年代前半に人気があった時に、ジャマイカの音楽家たちは、それらのカバーを録音した。

ジャマイカの独立

1960年代初め、スカは急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめた。アップテンポの裏打ちは1962年のジャマイカ独立を祝う気持ちと一致していた。例えばデリック・モーガンの「Forward March」やザ・スカタライツの「Freedom Sound」は、ジャマイカ独立を記念した曲である。スカのバンド編成がジャズバンドと同じため、ジャマイカン・ジャズ (Jamaican Jazz) とも呼ばれるが、これは、初めて海外にスカが紹介された1964年ニューヨークで開催された国際見本市において、ジャマイカン・ジャズと説明されたのが始まりである。この見本市では、バイロン・リー&ドラゴネアズ、プリンス・バスター、エリック・モリス、ピーター・トッシュらが選ばれ、演奏した。当時のジャマイカの音楽プロデューサーたちはスカを海外に波及させようとしていて、それをジャマイカ政府が支持していた。このような指向性でのスカは、積極的にメントなどのジャマイカの旋律の復活が試みられた。歌詞のある曲については、ブルース・バスターズの「Wings of a Dove」、エリック・モリスの「Oil in My Lamp」、ジミー・クリフの「King of Kings」、デスモンド・デッカーの「Israelites」など、キリスト教(ラスタファリズムではない)の復活を反映させたものが目立って多かった。その他の歌はほとんどが大衆的で、ジャマイカンパトワを必要としないナンセンスな内容だった。エリック・モリスの「Humpty Dumpty」や「Solomon Gundie」、デルロイ・ウィルソンの「Dancing Mood」などは、もっと後に生まれるロックステディとの橋渡しをする曲と言える。

ルードボーイ

その一方で、スカのもっとも初期のリスナーたちは、地方からキングストンに仕事を求めて来たゲットーに住む若年貧困層(ルードボーイ)であった。ルードボーイ達が踊ったスタイルによってスカにも影響を及ぼし、音楽はより脅迫的に激しく、ベースラインはよりシンプルに変化した。

ロックステディへ

1966年までには、多くの聴衆はスカのビートと速度に疲れるようになり、ビートはより遅くされてロックステディへと移行する。遅くなった理由として、ジャマイカの暑い夏のためとする見方もあるが、アメリカのR&Bからの影響が継続していたという点も挙げられる。1960年代半ばのモータウンスタックスソウルミュージックがより伸びやかで滑らかなスタイルに変化したことに、ジャマイカのミュージシャンも同調した。

2トーン以降

1970年代末には、イギリスでモッズスタイル、パンク・ロックとスカを融合した荒々しいサウンドの2トーン・スカが隆盛。主なバンドとしてマッドネススペシャルズなどがある。なお、2トーン・スカと区別するため、1960年代ジャマイカ産のスカをオリジナル・スカ (Original Ska) 、あるいはオーセンティック・スカ (Authentic Ska) と呼ぶこともある。

1980年代前半に、アメリカでフィッシュボーンがスカとパンク等を融合したクロスオーバーと呼ばれたロックを展開(時期を同じくして、日本ではレピッシュが活躍)。 その後、米の代表的なネオスカバンドトースターズのボーカリストであるバケットが、オーセンティック・スカ~パンク系までのオールマイティーなスカレーベルムーンスカ・レコードを設立。アメリカにおいて「サードウェーブ・スカ」と呼ばれるムーブメントを引き起こした。 一方ヨーロッパでは、下火ながらも2トーン・スカのスタイルも継承し続けられ、日本ではネオスカと呼ばれ、世界的にはPOST 2TONE等で呼ばれる。

サードウェーブスカとオーバーラップする形で1980年代終わり頃から、歪んだギターサウンドが特徴の、よりハードなスカコア/スカパンクが派生した。

1990年代初頭には、アシッド・ハウスとの混淆ジャンルであるスカシッド(Skacid)が生まれたが、短命に終わった。

1990年代前半までには、スカとスカ・パンクのバンドはアメリカ他世界中に出現した。1997年、ランシドティム・アームストロングバッド・レリジョンのブレット・ガーヴィッツが、エピタフレコードのサブレーベルとして、ヘルキャットレコードを創設。ヘプキャット(Hepcat)、スラッカーズ(The Slackers)など、スカ、スカ・パンクの多くのバンドを同レーベルから産み出した。

関連項目

脚注

  1. ^ bounce.com『Rico Rodriguez インタビュー』2006年7月24日

外部リンク